アキニレの果実 0014 記憶のための喩え話が大切な、ロマン主義

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枝に、まだ、実が残っていました。
 
翼果(よくか)と言い、
 
果実全体が、薄っぺらな翼状です。
 
 
中に入っている1個かぎりの粒が、種(たね)でして、
 
けっして、中に入ってるのが果実で、
 
その外側に翼状の付属物が発達しているのでありません。
 
 
柿や茄子のように、
 
1個の果実の中に、たくさんの種子が入っている植物と、
 
桃や稲のように、
 
1個の果実の中に、種子が1個だけの植物とがあります。
 
 
同じバラ科でも、
 
桃や梅のように、子房が膨らんだ真果と、
 
苺や林檎のように、子房以外の部分の膨らんだ偽果が
 
あります。
 
 
苺のように、花序全体で1個の果実を作る集合果や、
 
稲のように、
 
花の1個1個が、それぞれの果実になる植物もあります。
 
 
何が果実や種子であるかは、
 
花が受精して、世代交代する変化を、
 
花の構造に着目して、観察しなければいけませんが、
 
葉が変化して、花になり、
 
私たちは、世代交代でなく食用のために、
 
果実や果物を、指差(ゆびさ)しますから、
 
植物の名前が、進化の系統と一致しないように、
 
果実や種子の定義も、
 
植物の形態の遺伝的な枝分かれや組み合わせに、
 
必ずしも一致していません。
 
 

個人の判断の枝分かれが、言葉やビデオなどの、
 
コミュニケーションのためのメディアにより、
 
他人や、他のコンピュータに、伝えられますが、
 
私たちは、言葉やビデオを見聞きして、
 
コンピュータの集積回路や、
 
脳の神経細胞樹状突起などの、
 
判断の枝分かれや組み合わせを、知りたくありません。
 
 
記憶のための喩え話を知り、
 
他人の経験した精神や事実が伝わったと、誤解します。
 
 

そのせいで、脳の樹状突起には、
 
判断の汎用性があるにもかかわらず、
 
脳の特定の部位の神経細胞が、
 
特定の喩え話のためにしか、作動しないように、
 
脳の機能の偏食が、変更不能になっています。
 
 
コンピュータの集積回路は、
 
そのような不具合が起らないはずなのに、
 
昔の技術で作られた集積回路のために、
 
新しいソフトウェアのプログラムを作りませんので、
 
昔のプログラムのためにしか、
 
昔のハードウェアの集積回路は、機能しません。
 
 
脳の樹状突起が、汎用性を失い、
 
判断の変更不能をきたす仕組が、
 
今のコンピュータの集積回路でも、日常茶飯です。
 
 
特定の喩え話のためにしか、
 
機能しなくなる脳やコンピュータを、
 
私たちは、
 
具体的な精神や事実を、たくさん経験したと、
 
歴史的に表現します。
 
 
精神や事実は、経年劣化の原因や指標にすぎません。
 
 

コミュニケーションのための、言葉やビデオなどの、
 
メディアの表現しか、
 
精神や事実は、他人に伝えることが出来ませんので、
 
言葉やビデオを、たくさん経験した人ほど、
 
脳の神経細胞樹状突起が、判断の汎用性を失い、
 
特定の表現のためにしか、機能しなくなり、
 
判断が変更不能になります。
 
 
言葉よりもビデオのほうが、桁違いに情報量が多く、
 
たくさんのビデオを見た人や、
 
たくさんの事実を、ビデオのように思い出した人は、
 
早く老化して、早く死ぬかも知れません。
 
 
頭の悪い人ほど、長生きするので、
 
精神や事実を、よく覚えている人が、
 
日本人に虐められた中国人や韓国朝鮮人のように、
 
南京大虐殺従軍慰安婦を捏(でっ)ち上げて、
 
戦争を起こしてまでも、逆転しようと焦るのは、
 
不思議でありません。
 
 

果たして、私たちが見聞した事実は、
 
言葉やビデオにより、他人に伝えられるでしょうか。
 
 
直接には、他人に伝えられない精神や事実と、
 
他人に伝えるための言葉やビデオの表現が、
 
同じであると同定するのは、個人的な定義にすぎないと、
 
記号論理学者は言います。
 
 

複数の人間は、
 
伝えられた言葉やビデオの表現などを、
 
共有できるだけですから、
 
伝えられない精神や事実を、共有できるとするのは、
 
個人の勝手な思い込みでなければ、
 
権力のための、社会や文化による入れ知恵でないかと、
 
疑われます。
 
 

私たちは、ビデオを見て、
 
自分の記憶と同じであると、確信します。
 
 
ビデオは、
 
0と1の判断の道筋や組み合わせを、現していますから、
 
記憶とビデオは、判断の道筋や組み合わせが同じであり、
 
脳の中では、
 
樹状突起の枝分かれの、相対的な道筋として、
 
記憶されています。
 
 
1つの神経細胞樹状突起では、足りませんから、
 
いくつもの神経細胞樹状突起を、使います。
 
 
判断の枝分かれは、
 
1本が2本になり、2本が4本になるように、
 
選択肢が分岐しますが、
 
生物の進化系統図のように、不均一な枝分かれは、
 
汎用性が低い。
 
 
どの神経細胞を使用しても、似たようなものですが、
 
できるだけ均一に、何度も枝分かれした神経細胞を、
 
たくさん梯子(はしご)して、
 
判断の道筋や組み合わせの、特定や記憶や再現を、
 
行ないたい。
 
 

私たちが記憶しているのも、ビデオが現しているのも、
 
この判断の道筋や組み合わせですが、
 
無意味な乱数を暗記するように、
 
すでに知っていることに、こじつけて、
 
関連があるかのように、擬(なぞ)らえれば、
 
合理的です。
 
 
たくさんの意味を重ね合わせたほうが、
 
脳の神経細胞の掛け持ちや梯子(はしご)などの、
 
繋ぎ合わせが、少なくて済みます。
 
 
私たちが、ロマンティックな物語を作り、
 
0と1の無意味な羅列を、
 
言葉やビデオのように記憶するのは、
 
コンピュータの判断や記憶の仕組と、同じです。
 
 
人間の脳を、コンピュータが真似(まね)ました。
 
 
0と1の羅列から、
 
ロマンティックな言葉の使用に至る経緯は、
 
コンピュータが、すでに役立っているように、
 
間違いなく、私たちの脳の常套手段でした。
 

私たちの脳やコンピュータが、
 
記憶したり判断したりするのは、
 
0と1の、判断の枝分かれや組み合わせを、
 
特定するためですが、
 
社会や文化は、コミュニケーションのための、
 
言葉やビデオなどの、メディアの表現だけが、
 
精神や事実であるとして、
 
精神や事実の、嘘や間違いや本当を、識別します。
 
 
0と1の羅列を特定するための、
 
喩えや関連付けやリンクやこじつけに、
 
真偽の価値があるとするのは、
 
論理法則との一致を検証する、という意味です。
 
 
論理法則に違(たが)わなければ、
 
いかなる喩え話や物語も、絶対に嘘と証明されない、
 
という論理至上主義が、
 
インドヨーロッパ文明の根幹にありますので、
 
事実の出所が吟味されることは、ほとんどありません。
 
 

個人が、精神や事実を、直接に伝えられずに、
 
言葉やビデオの表現だけしか、他人に伝わらないのに、
 
ビデオと経験事実の内容が、同じであると、
 
判断するだけでなく、
 
他人も、その人の経験とビデオの内容が、同じであると、
 
判断して、
 
同じビデオが、同じ事実を経験した証拠になるのは、
 
論理法則に違(たが)わないからであり、
 
まったく別の判断も、簡単に成り立ちます。
 
 

汎用性のある樹状突起の枝分かれが、
 
喩え話のために使われるので、
 
脳の判断が変更不能になり、汎用性を失うのは、
 
ロマン主義の典型です。
 
 
ビデオの内容が、喩え話であるのは、
 
脳やコンピュータには、大切でなく、
 
社会や文化にとって、精神や事実の喩えが大切である、
 
という意味ですから、
 
どのようにして、ビデオは、
 
社会や文化の、特定のバーチャルな物語を、
 
記録できたのか、ということが、問題です。
 
 

社会や文化にとって、存在するのは、
 
言葉やビデオなどの表現だけであり、
 
個人が知る精神や事実は、バーチャルにすぎませんが、
 
個人にとっては、個人的な精神や事実だけが存在して、
 
言葉やビデオの内容は、
 
他人や社会や文化に伝えるための、
 
コミュニケーションの手段としての、
 
表現や権力にすぎません。
 
 
事実や精神と、言葉やビデオなどの表現が、
 
一致するのは、
 
個人と、社会や文化などの権力が、
 
結託しているからであり、
 
一致しないのは、争っているからです。
 
 
科学技術が、写真やビデオを作ったのは、
 
科学技術が、現代の権力を作ったからです。
 
 
論理主義と科学主義は、
 
共産主義革命や2度の世界大戦やホロコーストなどを
 
招いたロマン主義の特徴です。
 
 

ハルニレに比べて、
 
アキニレはこじんまりしていますが、
 
凄まじい量の翼果が飛びますので、
 
ポプラの雌株と同じで、街路樹にされると、迷惑です。
 
 
アキニレは雌雄同株ですので、 
 
この木が1本あると、周囲の生垣の中にまで、
 
たくさんの苗木が芽吹きますが、
 
大きくなると、病気に罹りやすく、また迷惑です。
 
 
せっかく育てたのに、病気になり、
 
伐らなければいけないのは、こん畜生ですから。
 
 
樹皮が剥がれて来ますので、あまり奇麗でありませんが、
 
病気に罹らなければ、
 
日本の広葉樹の高木の、最も細かい葉の質感が、
 
遠くからでも、美しく眺められます。
 
 
日当たりの良い水辺に育ちますから、
 
田んぼの多い日本の木ですが、
 
水辺の確保が、都会では難しい。
 
 
同じ楡(にれ)でも、ハルニレと大違いです。