【 I Wonder as I Wander 】 0020 なにゆえにイエスは  事実の知覚


Barbra Streisand- I Wonder as I Wander

【 I Wonder as I Wander 】
 
なにゆえにイエス
 
歌 : Barbra Streisand バーブラ・ストライサンド
 
 
    ***    ***
 
 
ノースカロライナの作者不明の歌を、
 
John Jacob Niles という人が、
 
1933年に、採集編曲して、作詞したそうです。
 
 
テープレコーダやボイスレコーダのない時代ですから、
 
記譜できる人が、民謡を採取しなければ、
 
現代に残りませんでした。
 
 
メロディやリズムを入手できれば、
 
いくらでも、編曲できますから、
 
作曲と区別がつきません。
 
 
コダーイバルトークなどによる民族音楽
 
収集と保存の運動がなければ、
 
民謡を採取しても、功績を認められませんでしたから、
 
音楽家は、自分の作曲のように偽り、発表したはずです。
 
 
記録する機械がありませんから、
 
世間一般に口ずさまれている民謡であることを、
 
他の地域の人は、知りません。
 
 
音楽は、盗作と、模倣や編曲などの間に、
 
はっきりとした区別がありませんから、なおさらです。
 
 

人間が手を下さなくても、
 
機械的に、調性やリズムを変更するだけで、
 
全然、別の曲ができますが、
 
音楽を採譜できない人は、
 
たぶん、機械的な変曲であることに、気づきません。
 
 
人が聞いても、同じ曲と気づかなければ、
 
盗作でないのは、あたり前です。
 
 

人間の言葉も、そうでしょう?
 
 
自分1人で、言語を発明したわけでなく、
 
人の真似(まね)をして、言葉を習得しました。
 
 
模倣と盗用によらなければ、言葉を習得できませんが、
 
言語は常に変化しますから、
 
他人の真似をする習作は、死ぬまで終わりません。
 
 

みんなと一緒の言葉を使わなければ、
 
他人に通じませんから、
 
盗作と創作は、簡単に区別されません。
 
 
言葉は、通貨のように、
 
誰にでも使えなければ、価値が低く、
 
著作権を設定して、流通を規制するのは、
 
言葉や通貨の、メディアとしての使用目的に、
 
矛盾します。
 
 

音楽や文章は、
 
慣習的な規則に違(たが)わない組合せにより、
 
機械的に、大量に作ることが出来ますので、
 
和歌を詠んだり、音楽を作詞作曲したりするのは、
 
将棋や囲碁に勝つよりも、コンピュータには簡単です。
 
 

論理法則に違わないように、
 
事実と言われる組合せを、見つけ出すのも、
 
機械的な作業であり、脳とコンピュータの仕組は、
 
同じです。
 
 
空間や時間が近いとか、
 
これまでに、みんなに合意された事実の筋書きを、
 
継承しているとか、
 
みんなの望む筋書きを、逸脱しないとかと、
 
条件を指定すれば、
 
コンピュータは、ありそうな現在や未来の事実を、
 
大量に作り出すことができます。
 
 

言葉やビデオなどの、
 
コミュニケーションのためのメディアの表現しか、
 
他人に伝えることができませんので、
 
みんなが合意できる現在や未来の事実を、
 
コンピュータが組み合わせて作り出せば、
 
それが即ち、私たちの知覚する事実になり、
 
それ以外の、みんなに共有されない個人的な事実は、
 
妄想や幻覚や宗教などと言われます。
 
 
今は、個人の脳が行なっていますが、
 
コンピュータが、事実を組み合わせたほうが、
 
間違いが少ない。
 
 

昔は、レコーダがなかったので、
 
人間が採譜しなければいけなかった民謡も、
 
今は、だれでも、
 
機械に録音して、保存できるだけでなく、
 
簡単に、機械的な編曲ができるように、
 
コンピュータを使えば、
 
事実と言われる組合せを、楽ちんに精確に大量に、
 
作り出すことが出来ます。
 
 
写真やビデオは、その走りであったと、
 
気づかなければいけません。
 
 

私たちは、言語を習得して、
 
文法や慣習に違わない言葉を使わなければ、
 
他人に通じないように、
 
事実と言われる慣習に違わない判断の組合せを、
 
今までは、脳の中で作っていましたが、
 
これからは、コンピュータを使い、
 
みんなと一緒に、楽しく作ることができます。
 
 
コンピュータが、物凄い勢いで、組合せを選別して、
 
みんなの許容できる組合せを、
 
いくつも作り出してくれますから、
 
私たちは、みんなで合意して、
 
現在や未来の事実を、民主的に制作することが出来ます。
 
 

さて、事実は1つである必要があるのでしょうか。
 
 
たくさんの条件を付ければ、1つに絞り込めますが、
 
処理能力が低ければ、
 
短時間に1つしか、組合せを見つけ出せませんから、
 
ロマン主義者の脳のように、事実は1つであると、
 
信じる羽目(はめ)になりました。
 
 

みんなで合意しないで、
 
個人の好みの事実を、みんなの前に、
 
発表してはいけないのでしょうか。
 
 
権力が、たくさんの条件を付けなければ、
 
事実が、1つに絞られることも、なかったはずです。
 
 

知覚の主体の精神が、知覚の対象の事実を、
 
目や耳を使い、知覚する、というロマン主義の考え方は、
 
すでに廃れたのでありませんか。
 
 
事実は1つでないはずです。
 
事実を、自分の好みの1つだけであると、言いたいのは、
 
個人の勝手ですが、
 
権力が、事実は1つであると、
 
刑事訴訟や精神医療を使い、主張するのを、
 
一般市民が疑わずに信じているのは、
 
ロマン主義の社会の特徴です。
  
 
日本は、明治憲法日本国憲法という典型的な
 
ロマン主義憲法を頂いていますので、
 
かつて、ロマン主義が、
 
共産主義革命や2度の世界大戦やホロコーストなどを
 
惹き起した時代の、
 
ヨーロッパの危険な意識を、いまだに信じています。
 
 

コンピュータが、キリスト教や仏教と同じように、
 
事実や精神は、虚妄であると、主張していることを、
 
法律家や精神科医は、真摯に受け止める必要があります。
 
 
ロマン主義の時代を、繰り返すべきでないと、
 
ロシアやアメリカ合衆国や日本や中国の人たちに、
 
言うべきかもしれませんが、聞こえないでしょう。 
 
 

私たちの脳は、コンピュータに再現されているように、
 
みんなが受け入れられる組合せを選んで、
 
事実として知覚しています。
 
 
みんなに受け入れられる条件として、
 
他人と、空間や時間が近いとか、
 
論理法則に一致しているとかと、
 
組合せを規定して、限定しますので、
 
私とあなたが、同じ事実を見ることになります。
 
 
脳の処理能力の低さからして、
 
同じ架空の組合せに至るのは、簡単な仕組です。
 
 

脳の樹状突起は、0と1の判断の枝分かれしか、
 
特定できませんから、
 
脳の判断が、物や物語のように
 
ロマンテロィックに翻訳されるのは、
 
個人的でなければ、みんなと一緒の文化のせいです。
 
 
身近な他人と、同じ文化のもとに暮らしていることが、
 
規定されれば、
 
個人的な思惑(おもわく)のような翻訳の違いが、
  
異なる0と1の判断の枝分かれや組合せを、
 
同じ事実の知覚として、特定する原因です。
 
 
写真やビデオは、
 
個人的な思惑を排除して、脳の外側の、
 
同じ文化と言われるを規定を、
 
0と1の判断の枝分かれや組合せとして、特定します。
 
 
写真やビデオは、事実を他人に伝えるための、
 
メディアの表現であるだけでなく、
 
私たちは、メディアの表現と事実が、同じであることを、
 
比較して、同定しなければいけませんから、
 
写真やビデオは、他人に伝えられない事実でもあります。
 
 
メディアの表現は、他人に伝えることができますが、
 
事実は、他人に伝えられませんので、
 
写真やビデオは、思惑と言われる個人的な翻訳により、
 
他人と同じ事実として、知覚されます。
 
 

事実は、脳やコンピュータにより、作り出されますが、
 
どのような規定を、組合せの条件とするかは、
 
慣習や法律などの、みんなの権力の内容によります。
 
 

人間やコンピュータの判断によらずに、
 
事実と言われる世界が、存在して、
 
目や耳が、世界を知覚していると、愚かなことを、
 
法律家や精神科医は、考えるべきでない。
 
 
私は神秘主義者やロマン主義者でありませんから、
 
別に、キリスト教を讃えませんが、否定しません。
 
 

クリスマスキャロルと言いますが、
 
キャロルは、ヨーロッパの特定の舞踏音楽を、
 
指(さ)していたようです。
 
 
そのリズムを、私は知りませんが、
 
たぶん、現代では、舞踏のためよりは、
 
キリストを讃える賛歌や頌歌を、意味しています。
 
 
クリスマスの今日は、
 
大年増のバーバラ・ストライサンドの出番と、
 
思いました。
 
 
サウスカロライナジョージアテネシーは、
 
飛行機を使い、何度も訪れたことがあり、
 
ニューヨークからバージニアまでは、
 
車や列車を使い、旅したことが、何度かありますが、
 
ノースカロライナは、一度もなく、何も知りません。
 
 
おそらく、訪れる機会はないでしょう。