【カーニバルの朝】 ペリー・コモ 0027 事実の真偽を、知覚できますか


Perry Como and Luiz Bonfa - Manha de Carnaval

【カーニバルの朝】 Manha de Carnaval
 
歌 : ペリー・コモ Perry Come
 
ギター : ルイス・ボンファ Luiz Bonfa(作曲者)
 
 
    **** ****
 
 
最初のフレーズを聞いただけで、
 
ペリー・コモの声に、痺れますが、
 
前奏のギターが、作曲者自身ですので、
 
生き生きとしています。
 
 
外科医はだめですが、散髪屋は素晴らしい。
 
 

2018年のリオのカーニバルは、
 
2月9日(金)~2月13日(火)までとか。
 
 
復活祭の46日前ですけれど、
 
死んでから3日目に復活したキリストを、
 
春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日に祝う理由を、
 
私は知りません。
 
 

太陽暦太陰暦の両方を用いますから、
 
復活祭の日が、年により変わり、
 
当然、謝肉祭のカーニバルの日も、変わります。
 
 

紀元前後のローマは、ミトラ教が盛んでしたが、
 
ようするに、月と太陽の暦の、数学的な計算が、
 
信仰の対象となる神秘でした。
 
 
天体の運行の規則性を、信仰するのは、
 
インド人の数学的な文化だけでなく、
 
論理法則という流行文化が、
 
遺伝的に変更不能になった理由と思います。
 
 
人殺しや勧善懲悪と同じですが、
 
流行文化は、占星術のように自然現象と結び付き、
 
確信が、遺伝の中身を純化しましたから、
 
インカの生贄のように、
 
生まれつきを決める人殺しが、勧善懲悪の原動力として、
 
崇拝されました。
 
 

私が、いま見ている事実は、本当と、確認できますか。
 
嘘や間違いでなく。
 
 
いま、見ている事実に、私が働きかけて、
 
反応や結果を、
 
論理法則に照らして、検証する手もありますが、
 
他人を使うほうが、手っ取り早い。
 
 
隣に立つ他人も、同じ事実を見ているから、
 
嘘や間違いでないと。
 
 

しかし、他人と結託する手は、
 
これこれの事実を見ていると、
 
お互いに、伝え合わなければいけません。
 
 
言葉や絵を使ったコミュニケーションは、
 
嘘や間違いが多いのでないかと、ケチが付くのは、
 
あたり前です。
 
 

写真やビデオなどの、
 
科学技術を使えば、間違いないと、言われます。
 
 
言葉や絵にしても、写真やビデオにしても、
 
事実を正しく伝えていると、
 
検証されなければいけません。
 
 
言葉や絵に、嘘や間違いが多いのは、
 
だれでも知っていますが、
 
写真やビデオの、嘘や間違いを、検証できますか。
 
 

いま見ている事実と、写真やビデオが、同じであると、
 
証明されなければいけませんが、
 
事実を、直接に他人に伝えられないので、
 
写真やビデオなどの、
 
コミュニケーションのためのメディアを使います。
 
 
事実と、メディアの表現が、同じであると、
 
他人は判断できますか。
 
 

私が知覚した事実について、
 
事実と、言葉やビデオなどの、
 
コミュニケーションのためのメディアの表現が、
 
同じであると、
 
直接に判断できるのは、私1人だけであり、
 
他人に伝えた判断を、他人は検証できないように、
 
私もまた、他人の判断を、検証できません。
 
 
2人とも、それぞれが個人的に判断しているだけで、
 
お互いに、相手の判断の真偽を、検証できませんから、
 
2人は、同じ事実を見ている、とする言葉を、
 
共有しているだけです。
 
 

人が何を知覚しているかは、他人に、わかりません。
 
 
他人の言葉を聞き、矛盾がなければ、
 
本当かも知れない、と思い、
 
論理法則に合致しなければ、嘘や間違いであると、
 
判断します。
 
 

矛盾がなければ、本当かも知れないと、思うのは、
 
たぶん、間違いです。
 
 
矛盾があってもなくても、
 
本当の事実が存在することを、だれも証明できません。
 
 
矛盾があれば、嘘や間違いである、とするのは、
 
明らかに間違いです。
 
 
矛盾だらけの話も、
 
写真やビデオなどの、科学技術により、
 
本当であったと、他人は、判断するかも知れません。
 
 

写真やビデオがあれば、
 
いま見ている事実が、嘘や間違いでなく、本当であると、
 
証明できますか。
 
 
収容所のユダヤ人を、ナチスが大量に殺していると、
 
フランスやイギリスやアメリカにまで、
 
聞こえていましたが、証拠がありませんでした。
 
 
噂(うわさ)は、矛盾だらけでした。
 
 
ドイツが負けると、
 
収容所から、大量の骨や死体が発見されて、
 
ユダヤ人やドイツ兵から、大量の証言が得られました。
 
 
証言に、矛盾があってもなくても、
 
言葉は、嘘や間違いかも知れませんし、
 
骨は、何も語りませんから、
 
骨に纏わる話が、本当であるという証拠に、なりません。
 
 
たぶん、骨や死体が喋っても、
 
嘘や間違いでないと、証明されません。
 
 

どのようであれば、本当であると、確定できますか。
 
 
記号論理学は、すべての判断は定義であり、
 
すべての言葉は、
 
使用されるたびに、新しく定義されると、言います。
 
 
コンピュータの定義が、
 
変更されるまで有効であるのは、
 
定義や変更が、漏れなく記録されて、失われず、
 
だれに対しても、公開できるからです。
 
 
言葉は、慣習法であり、
 
個人の脳の中の、有効な定義を、
 
だれに対しても、1度たりとも、
 
公開できた試しがありません。
 
 
個人の脳は、不公正ですから、
 
脳の中の、自由な定義が尊重されなければ、
 
社会は成り立ちません。
 
 
嘘や間違いの自由が、尊重されなければ、
 
拷問や殺し合いなどにより、
 
嘘つきを片付けるしかありません。
 
 

私と、すぐ傍らに立つ他人が、
 
同じ事実を見ていると、だれも証明できません。
 
 
証明できないにもかかわらずに、ロマン主義の時代には、
 
証明できるかのように、学校で教えていました。
 
 
同じ言葉を使っているからです。
 
 
共産主義革命や2度の世界大戦やホロコーストなどが
 
起こるのは、当然でした。
 
 
日本国憲法日本国憲法は、
 
今も、事実を信奉しています。
 
 
南京大虐殺従軍慰安婦が、事実とされる理由を、
 
おそらく、死ぬまでに理解できません。
 
 

しかし、
 
合意があれば、同じ事実を見ている、とする言葉が、
 
共有されます。
 
 
お金があれば、簡単に談合できますが、
 
貧乏人同士が、すぐに殺し合いになるのは、
 
同じ事実を見ていると、証明する手がないことを、
 
瞬時に理解できないからです。
 
 
証拠がないから、証明できないと、
 
瞬時にわからない人は、
 
事実という証拠を、信じて、
 
藁をも掴(つか)む生活に、
 
死ぬまで、明け暮れるはずです。
 
 

ロマン主義者は、
 
「知覚の主体の精神が、知覚の対象の事実を、
 
目や耳などを使い、知覚する」と、
 
驚異的なことを主張しましたが、
 
日本国憲法日本国憲法が、
 
ほとんど純然たるロマン主義を、標榜していましたので、
 
日本国民は、ロマン主義の脅威を、
 
まったく感じませんでした。
 
 

私は、7才くらいの頃から、
 
目で見たことと、言葉は、違うのに、
 
同じであるとするのは、約束事であり、
 
言葉は全部、約束の組合わせですから、
 
違うものを同じであるとする定義を、
 
明らかにしない大人の世界が、不快でした。
 
 
中学生になると、違うものが同じであると、
 
無責任に言っておきながら、
 
その記録や規則が、法律に提示されないのが
 
諸悪の原因であると、確信しました。
 
 
私たちは、言葉により、言葉を記録できますが、
 
言葉により、見たことや聞いたことを、記録したり、
 
言葉の規則を、作ったりすることは、できません。
 
 

記録も規則もないのに、判決や診断がありますから、
 
人間の頭が足りないのは、
 
ブルドックやダックスフンドを作ったように、
 
遺伝的に変更不能になった流行文化を、
 
論理法則として、宗教のように信奉しているからと、
 
結論しました。
 
 

まだ、中学生でしたので、 
 
男と女は違うから、一緒になり、子供が生まれるなんて、
 
マルクス主義唯物論や科学主義を、信じませんでした。
 
 
それなのに、
 
大学の校舎の入り口を、セメントで塗り固めて、
 
学部を封鎖する羽目(はめ)になり、
 
気がついたら、子供が生まれていました。
 
 
青年は、猫も杓子も、新左翼の時代でしたから、
 
拳(こぶし)ほどもある石ころや火炎瓶を、
 
屋上から、平気で機動隊に投げて、
 
夢のような人生でした。
 
 

アリストテレスの大昔から、
 
世の中は、論理法則で出来ていると、
 
書かれていたくらいに、
 
ギリシャ神話や三国志の、嘘八百が面白いのに、
 
実生活や科学技術の、
 
荒唐無稽な論理法則の組合わせに、文句を言うのは、
 
我が儘というものでした。
 
 

論理法則の成り立ちは、
 
暦のような、天体の運行と、よく似ていますが、
 
生物の分類にも、似ています。
 
 
勧善懲悪より以前に、それを説明しなければ、
 
話が進みませんので、面倒なことです、
 
ブログを書くというのは。
 
 
カーニバルの朝は、ボサノバの代表的な曲です。
 
 
ボサノバは、1960年前後の、
 
ブラジルの新傾向の流行感覚を作った音楽ですが、
 
綺麗なメロディに、
 
ジャズやシャンソンの歌詞を載せた感じでした。