近鉄南大阪線ターミナル駅の阿倍野ハルカス 0024 事実と精神のしくみ

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日本で1番高いビルですが、
 
1度しか、入ったことがありません。
 
 
女子高生が入らなければ、だれも入らないでしょう。
 
年末なのに、閑散としていました。
 
 
近鉄百貨店は、垂れ幕を、ぶら下げないのでしょうか。

 
無骨な男っぽいデザインですから、
 
お金を使ってくれる女性が目当ての、
 
おしゃれな集客施設とは、違います。
 
 
近鉄南大阪線のターミナル駅の、あべの橋ですから、
 
東京の私鉄の、狭くてボロいターミナル駅のほうが、
 
よほど、大阪のイメージに近い。
 
 
階下の駅は、人だらけで、ごった返していました。
 
 

歩道橋に屋根があるのは、便利ですが、
 
天王寺阿倍野を、うろつきたい気持ちに
 
なりませんでした。
 
 
大阪は、だんだと寂れて行くのが、目に見えています。
 
 
天王寺公園のホームレスを始末したのが、
 
世も末だったのかも。
 
 
汚く混沌として、どんなに裕福なお金持ちでも、
 
ホームレスと対等に話せる心意気がなければ、
 
大阪でない!
 
 
東京都港区の真似(まね)をしたのでは、
 
生きる目がないと、私は思いました。
 
 

このブログは、日記ですが、
 
だれも読まないのに、公開していますので、
 
言いたいことを、書きます。
 
 
言ってはいけないことを、
 
公開しないカルテに、記録していますから。
 
 

人生のほとんどは、公開すれば、損をするので、
 
秘密が大切です。
 
 
仕事のほぼ全部は、守秘義務がありますが、
 
義務がなくても、公開すれば損をします。
 
 
プライベートな生活のほとんどは、
 
インターネットに公開すれば、危害を受けますので、
 
日時や場所や人物や、具体的な用件や状況などを、
 
特定しません。
 
 
パスワードを公開しないように、
 
プライベートと仕事にかかわらず、
 
非公開が、人生の基本です。
 
 

ならば、公開される人生の事実を問う刑事訴訟は、
 
嘘でないかと、疑われます。
 
 
その反対に、非公開の精神医療は、
 
精神の証拠がなく、嘘でないかと疑われます。
 
 
嘘や本当は、何により、決まるのでしょうか。
 
 

このブログの主題です。
 
 
事実と精神を、基準にする人が、
 
一般市民だけでなく、法律家や医師に多いのは、
 
「知覚の対象の事実を、知覚の主体の精神が、
 
目や耳を使い、知覚する」、とするロマン主義の思想が、
 
大日本帝国憲法日本国憲法を作り、
 
政治家や、行政府の公務員だけでなく、
 
広く一般に、法律家や精神科医が、ロマン主義の権力を、
 
行使しているからです。
 
 

しかし、流行のコンピュータの、
 
ソフトウェアの原理を作った記号論理学や、
 
半導体集積回路を作った電気工学は、
 
ロマン主義の常識を、否定しました。 
 
 
人間の感覚器官は、
 
科学技術を作るために必要な事実を、
 
知覚できませんので、
 
人間が知覚できるように、事実を翻訳するための
 
計測器が必要です。
 
 

このことは、人間が知覚できる事実を、
 
直接に、他人に伝えることができないので、
 
コミュニケーションのためのメディアとしての、
 
言葉やビデオなどの表現に、
 
翻訳しなければいけないのと、同じです。
 
 

翻訳されない知覚の内容は、個人的な事実であり、
 
翻訳されて、他人に伝わったメディアの表現だけが、
 
みんなの事実として、社会に存在しますので、
 
コンピュータは、みんなの事実を扱い、
 
他人に存在の確認されない個人的な事実を、扱いません。
 
 
コンピュータでは、
 
言葉やビデオなどの、メティアの表現だけが、
 
唯一の事実ですので、
 
事実と言われる形而上学の概念を、使用する意味も、
 
なくなりました。
 
 
コンピュータは、単に、情報を扱います。
 
 

ロマン主義だけでなく、それ以前の形而上学が、
 
情報と言わずに、事実と言った理由は、簡単です。
 
 
言葉や絵には、嘘や間違いが多く、信じられない。
 
 
コミュニケーションのための言葉や絵の、
 
嘘や間違いの情報と、区別するために、
 
事実と言われる概念を作りましたが、
 
嘘や間違いの事実もあるだけでなく、
 
事実は、直接に他人に伝えられず、
 
言葉や絵などの、
 
コミュニケーションのためのメディアの表現に、
 
頼らなければいけません。
 
 
あいつが、言葉や絵を使い、
 
他人に伝えている情報は、嘘であり、
 
俺の見た事実が、本当であると、
 
形而上学は言いたかった。
 
 

だから、電信や写真やラジオなどが発明されて、
 
形而上学は廃れましたが、
 
共産主義革命や2度の世界大戦やホロコーストなどが、
 
起こりました。
 
 
ロマン主義の1派の
 
マルクス主義や、ナチス社会主義などは、
 
科学主義を掲げましたが、
 
それらの惨劇を起こしたロマン主義者たちは、
 
共通して、
 
「知覚の対象の事実を、知覚の主体の精神が、
 
目や耳を使い、知覚する」、と信じていました。
 
 

人間は、事実の大部分を、知覚できないので、
 
計測器を使わなければ、科学は発達しませんが、
 
何と何を計測すれば、
 
事実の全部がわかるのかを、誰も知りません。
 
 
それどころか、事実の一部を知覚する人間の感覚が、
 
事実の概要を伝えているのか、
 
それとも、事実の全体像は、
 
人間の知覚した部分的な情報と、
 
まったく異なるのかを、誰も知りません。
 
 

計測器の捕捉した情報を、
 
人間の感覚できる情報に、翻訳しなければ、
 
人間は、未知の情報を、受取れませんので、
 
その翻訳の正しさを、論理法則が保証したとしても、
 
自然科学は、
 
論理法則を、神のように信奉すべきでありません。
 
 

論理法則は、
 
遺伝的に変更不能になった慣習法ですから、
 
嘘と本当を見極めるために、
 
価値の変更不能を競うのは、笑止千万です。
 
 

自然科学は、未知の事実を知るための、
 
形而上学の一種として、
 
近世以後のロマン主義に、受け継がれましたが、
 
科学が発達しなければ、事実は知られないだけでなく、
 
発達しても、事実の全貌は、永遠に知られませんから、
 
論理法則と言われる慣習が頼りの、
 
ネズミの回し車やネズミ講などに、似ています。
 
 

論理法則が頼りの記号論理学は、
 
コンピュータの原理を作るにあたり、
 
はっきりと宣言しました。
 
 
言葉やビデオなどの、
 
コミュニケーションのためのメディアの表現だけが、
 
他人に伝えられる存在の全部であり、
 
けっして、表現の背後に、
 
表現された本体の、事実や精神と言われる存在は、ない。
 
 
コンピュータは、事実や精神を、扱わない。
 
論理法則だけが、表現の正しさを、保証します。
 
 
コンピュータは、何と何と何が、論理法則であるかを、
 
明らかにしません。
 
 
みんなの役に立つ定義が、みんなに普及しますので、
 
論理法則と言われて、人間の遺伝を規定します。
 
 
役に立たない人間は、間引かれますので、
 
人間が、ブルドックやダックスフンドを作ったように、
 
コンピュータの普及が、人間の遺伝を作ります。
 
 
役に立たない人間は、精神病と言われて、
 
間引かれるでしょう。
 
 

コンピュータが、
 
0と1の、判断の枝分かれや組合せを、特定する方法は、
 
人間の脳の、樹状突起の枝分かれを、模倣しました。
 
 
0と1の樹状突起の枝分かれが、
 
言葉やビデオに翻訳される仕組は、
 
専門学校出身のプログラマーなら、誰でも知っています。
 
 
未知の事実は、
 
脳の中の、どこにも記憶されていませんが、
 
樹状突起の枝分かれがあれば、
 
言葉やビデオに翻訳されるのは、あたり前です。
 
 

未知の事実が、脳の外側の世界にあると、
 
確信するのは、
 
脳の樹状突起の0と1の枝分かれを、
 
言葉やビデオに翻訳する手順が、
 
脳の外側の、文化に依存すると、確信しています。
 
 
脳の外側の文化を、個人の脳が特定すれば、
 
脳の外側の事実を知覚したと、個人は確信します。
 
 
同じ文化に依存していれば、隣に立つ人と、私とが、
 
同じ脳の外側の事実を知覚するのは、当然です。
 
 
同じように、それぞれの脳の中の、
 
0と1の枝分かれや組合せを、特定しただけです。
 
 
0と1の判断の枝分かれや組合せは、
 
汎用性がありますので、
 
私の脳の中で特定しようが、
 
隣の人の樹状突起を使って特定しようが、
 
同じ組合せが特定されて、同じ事実が見えるのは、
 
あたり前です。
 
 
私のパソコンを使おうが、隣の家のパソコンを使おうが、
 
同じプログラムなら、同じ結果になります。
 
 
同じ文化なら、2つの脳が、同じ事実を知覚するのは、
 
あたり前です。
 
 

自分の居場所を、違う場所に指定すれば、
 
違う事実が見えます。
 
違う0と1の組合せを、たぶん同じプログラムが、
 
特定しただけです。
 
 
パソコンの使い方に習熟していない人は、
 
嘘の付き方を知りませんが、
 
使い慣れている人は、
 
ニューヨークに居るのに、東京に居ると、嘘を付きます。
 
 
脳を使い慣れている人は、簡単に嘘をつけますから、
 
人を殺したと言うことも、殺していないと言うことも、
 
可能です。
 
 
ロマン主義者は、どちらが本当かと、詮索しますが、
 
記号論理学者は、メディアの表現だけが、存在すると、
 
言います。
 
 

私たちが、今、手を使い、お茶を飲み、熱いと感じ、
 
隣の女の目が、私を見てるのを、私が見ているとか、
 
今、車を運転して、
 
野良犬を轢き殺しそうになったので、車を降りて、
 
犬の毛が、車体に付着していないかを、確かめたとかを、
 
嘘偽りのない事実と感じるのは、
 
脳の樹状突起を使い、
 
0と1の枝分かれや組合せを特定して、
 
文化的な翻訳のプログラムにより、
 
お茶や車や犬に、翻訳したのを、
 
目や手により知覚したと、信じているだけですが、
 
確かに、目や手があると、あくまで事実を主張しても、
 
そのように知覚する文化が、プログラムでなく、
 
事実と言われる未知の存在であるとは、証明されません。
 
 
もちろん、文化的なプログラムであると、証明するのも、
 
論理法則にすぎませんから、
 
論理法則こそが、文化の中の、
 
遺伝的に変更不能になったブルドックの、
 
顔のような存在です。