三浦半島松輪から浦賀水道と鋸山 0010 事実を共有していると、思うのは、妄想か 

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三浦半島の松輪から浦賀水道と房総半島の鋸山など。
 
手前の畑は、大根です。
 
 
普段は、横須賀に暮らしていますので、
 
三浦半島全体が、
 
休みの日の、ウォーキングの対象です。
 
 
片道1時間半を超える所は、往きと帰りのいずれかを、
 
車や電車や自転車やバスなどに、頼ります。 
 
 
横須賀から、京急の特急で、品川に通っていましたが、
 
これからは、横須賀に帰らずに、
 
港区のマンションに、寝泊まりする日が、
 
多くなるでしょう。
 
 

こうして、文京区の家も、
 
子どもたちに乗っ取られましたから、
 
また、同じことが繰り返されるだけです。
 
 
やがて、横須賀に帰る日もなくなる、と思えば、
 
三浦半島浦賀水道の風景も、懐かしくなります。
 
 
年を取り、予想外だったことは、
 
話し相手がいなくなり、寂しくなることでした。
 
 
親しい人が亡くなり、
 
だんだんと一人ぼっちになって行くのは、
 
あたり前なのに、その積もりをしていませんでしたから、
 
私は、救いようのないアホと、実感しています。
 
 

形而上学や精神医学などは、つまらないことですが、
 
記号論理や植物の話と同様に、私は大好きです。
 
 
それが出来なければ、
 
仕事と、ウォーキングやサイクリングに、凝るしかない。
 
 
ブログを書いても、だれも読んでいませんから、
 
ほとんど独り言です。
 
 

コンピュータは、0と1の、いわゆるマシン語として、
 
言葉やビデオを、他のコンピュータに、伝えます。
 
 
言葉とビデオは、0と1の羅列であり、
 
ビデオのデータ量が、言葉よりも、遥かに多いことしか、
 
言葉に、嘘や間違いが多いとか、
 
ビデオは、事実に忠実であるとかと、判断できる理由が、
 
メディアの側にありません。
 
 

メディアと言うのは、言葉やビデオなどの、
 
他の、人やコンピュータとの、
 
コミュニケーションのための、
 
規約に則った表現のことです。
 
 
コンピュータは、言葉やビデオの、判断の道筋を、
 
特定できるように、
 
0と1により、岐路の選択を、延々と羅列しますが、
 
少なくとも、メディアの側だけでは、
 
嘘や間違いであると、判断できる根拠が、不十分です。
 
 

私たちは、メディアの表現が、
 
論理法則や事実に違(たが)わないことを、見極めて、
 
嘘や間違いであるかを、判断しますが、
 
事実や精神は、
 
直接に他人に伝えることができませんから、
 
メディアに翻訳して、伝えています。
 
 
論理法則に違(たが)うことを除き、
 
メディアの表現が、嘘や間違いであると、判断するには、
 
事実や精神と比較するほか、ありません。 
 
 
論理的な誤りがなければ、
 
事実とメディアの両方は、他人に伝えられないのに、
 
どのようにして、
 
他人と同じ事実を知ったと、人は判断するのでしょうか。
 
 

コンピュータは、事実や精神を、判断しません。
 
 
事実や精神を、
 
他のコンピュータや人に、伝えられないだけでなく、
 
事実や精神を、コンピュータは知りませんから、
 
当然です。
 
 

コンピュータが、伝えたり判断したりするのは、
 
事実や精神についての、メディアの表現だけですが、
 
人間は、知覚の対象の事実と、知覚の主体の精神を、
 
知っていると、主張します。
 
 
目や耳により、知覚していると、言います。
 
 
目や耳があることも、事実ですから、
 
他人に伝えられずに、メディアに頼る嵌めになり、
 
話は、複雑になるばかりです。
 
 

事実や精神は、直接に他人に伝えられないので、
 
言葉やビデオなどの、メディアの表現を、
 
他人に伝えるしか、ありません。
 
 
人間は、事実や精神と、メディアの表現を、比較して、
 
他人の言葉を、嘘や間違いであると、判断したり、
 
ビデオの映像や音声を、
 
ほとんど本当であると、判断したりします。
 
 
事実や精神は、
 
他人やコンピュータに、伝えることができませんから、
 
この比較は、個人的な判断です。
 
 
なぜ、人それぞれの個人的な判断を、
 
他人に伝えるメディアの表現が、
 
他人と同じであれば、
 
同一の事実や精神を、他人と共有しているかのように、
 
人は、錯覚するのでしょうか。
 
 
メディアの表現だけが、判断の根拠なら、
 
事実や精神は、余計であり、
 
何のために、メディアの背後に、事実や精神があると、
 
人は、確信するのでしょうか。
 
 
裁判官や精神科医は、それを行ないますから、
 
疑問であるだけでなく、
 
憲法が、事実や精神の存在を、確信していますから、
 
異常です。
 
 
そのような社会や人間に、
 
疑問や異常を感じない生き方や考え方を、
 
ロマン主義と言いますが、
 
ホロコーストや2度の世界大戦や共産主義革命などの、
 
原因になりました。
 
 

ロマン主義の、時代錯誤の嘘や間違いは、
 
法律家や精神科医や政治家や軍人などの、
 
頭の悪いことによりますから、
 
事実や精神は、妄想や幻覚であると、言うべきですが、
 
頭の悪いほうが、圧倒的多数ですから、
 
自分たちの事実や精神が、妄想や幻覚であると、
 
理解する必要もなければ、
 
頭が悪いと、卑下する必要もありません。
 
 

論理法則が、圧倒的多数に支持されている理由と、
 
まったく同じですから、
 
こうして、説明することは、あまり賢くありません。
 
 

コンピュータの0と1は、スイッチonとoffですが、
 
yesとnoの、判断の分岐を、表わしていますから、
 
集積回路の中の、トランジスタダイオードの配線や、
 
脳の神経細胞樹状突起の枝分かれなどに、似ています。
 
 
重機が、筋肉の肩代わりをするように、
 
人間の判断を準(なぞら)えて、
 
コンピュータを作りましたから、あたり前ですが、
  
結果を遡れば、必ず、出発点に戻りますので、
 
期待する結果を入力すれば、途中の道筋がわかります。
 
 

あらかじめ、判断の枝分かれの、
 
すべての組み合わせを、準備しますから、
 
脳の作業よりも、しんどい目を見ますが、
 
最初にプログラムを組めば、あとは、楽ちんです。
 
 
1人がプログラムを作れば、
 
世界中の人が、楽になります。
 
 
これは、電気モーターや内燃機関を作れない人が、
 
重機や自動車を扱い、幸せになるのと、同じです。
 
 

yesとnoの、判断の組み合わせに、
 
世情の価値を、当て嵌めますから、
 
判断の組み合わせには、汎用性があり、
 
集積回路やコンピュータは、
 
人間の脳よりも、自由に応用できます。
 
 
私たちの脳は、たやすく変更不能になり、
 
汎用性を失ないますので、賢い人ほど、知的障害に近い。
 
 
脳の部位に、特定の機能が配置されているのは、
 
汎用性を失い、特定の具体的な判断しか出来ないように、
 
変更不能になってしまったからです。
 
 
生まれつきに決まっていますから、
 
生まれた時から老化しています。
 
 
あほですが、常識では、天才と言います。
 
 

精神という文明以前の呪術を、
 
よく覚えて変更不能になり、 
 
古代の目や耳や論理法則を、1才までに習得して、
 
勧善懲悪の中世の価値を、理由もなく確信します。
 
 
事実という近世の妄想や幻覚から、抜け出せずに、
 
知覚の主体の精神が、知覚の対象の事実を、
 
目や耳を使って知覚する、という近代のロマン主義の、
 
憲法や刑事訴訟や精神医学を、闇雲に信じます。
 
 
コンピュータをよく使うのに、それを作った考え方が、
 
世間の常識を、真っ向から否定していると、
 
気づきません。
 
 

法律家や精神科医が、そう。
 
彼らは頭が悪い、と言うと、
 
多勢に無勢ですので、言いませんが、
 
権力を握っている人たちが、古い考え方を習得して、
 
変更不能になっているだけでなく、
 
生まれつきに、変更不能になりやすい脳の機能であると、
 
推測できるのが、情けない。