間口漁港 0012 精神や事実という虚像が、嫌(いや)な奴を片付けて行く手順

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三浦半島
 
松輪(まつわ)の間口(まぐち)漁港ですが、
 
冬は寒い。
 
 
港は、風景の半分が海ですから、人が居ません。
 
 
山に囲まれた天然の入江は、山にも、人が住めません。
 
 
こんなところに、バス路線がある。
 
 

松輪の鯖(さば)なら、私も知っているが、
 
景色が良くても、寂しく寒い。
 
 
まるで、年寄の身寄りのように、
 
いまさら、知り合う友もなく、
 
身近な仲間が、死んで行くばかり。
 
 
なんとなく、釣り船を営む漁師に、似ているのかも。
 
お客と親しく話しても、友達になれない。
 
仲間は少ないだろうと、カメラを向けました。
 
 
人影のない漁船に、冬の風が冷たい。
 
手前に、アオサギが1羽。
 
海面の漁具に乗り、羽を休めている。
 
 
 

精神が、実体のない雲や霧や空気に、似ているように、
 
事実もまた、ありもしないバーチャルな虚像なら、
 
なんのために、精神や事実を、想定するのでしょうか。
 
 
人は、自分という精神を、
 
社会から習得して、実感しますが、
 
いまのところ、生まれつきの素質は、確認できません。
 
 
精神や事実は、他人に伝えることが出来ませんが、
 
言葉やビデオなどの、
 
コミュニケーションのためのメディアを使えば、
 
他人に伝えられると、思うのは、間違いです。
 
 
私たちが、他人に伝えることが出来るのは、
 
言葉やビデオなどの、メディアの表現であり、
 
精神や事実は、表現されているだけです。
 
 

お釈迦さんが、実在していた、という表現を、
 
他人に伝えることは、できても、
 
お釈迦さんを伝えることは、できません。
 
 
ほんとうに、お釈迦さんは、
 
実在していたのでしょうか。
 
噂(うわさ)だけの、
 
バーチャルな人物かも知れません。
 
 

精神や事実は、他人に伝えられませんから、
 
完全に個人的であり、
 
伝えられたメディアの表現だけが、他人と共有されます。
 
 
表現が、他人と同じでも、
 
表現されている精神や事実が、他人と同じであると、
 
限りません。
 
 
完全に個人的な精神や事実が、他人と同じ内容であると、
 
メディアの表現から、推測できるでしょうか。
 
 

同じであるとも、違うとも、似ているとも、
 
メディアからは、判断できないのに、
 
私たちは、事実により、他人を処罰したり、
 
精神を判断して、病気だからと、強制的に隔離監禁して、
 
抗精神病薬抗不安薬などの、向精神薬により、
 
他人の人格を破壊したりします。
 
 

言葉は、なぜ通じるかが、形而上学の現実問題でした。
 
 
通じるのは、言葉やビデオなどの、
 
0と1の羅列だけであり、
 
それらが何を意味しているか、という翻訳や解釈は、
 
完全に、個人の自由に属しています。
 
 

実際には、表現の意味を知る手法だけでなく、
 
精神や事実があると、想定して感じる文化を、
 
社会から習得しますので、
 
私たちが、精神や事実の内容を、
 
言葉やビデオなどにより、他人に伝えることが出来ると、
 
間違えて信じるのは、
 
精神や事実の内容が、個人の中にあるのでなく、
 
最初から、社会や文化の中にあったからでないかと、
 
強く疑われます。
 
 

コンピュータを作った記号論理学は、
 
そのことを、概念と概念の関係が同じなら、
 
架空の精神や事実の内容と、
 
実際に伝えられた言葉やビデオなどの表現とが、
 
同じであると、判断できると、考えます。
 
 
つまり、メディアの表現が、
 
論理法則に違反していなければ、
 
個人的な、架空の精神や事実を、
 
自由に捏ち上げても、完全に他人に通じるだけでなく、
 
他人が自由に捏ち上げた精神や事実と、同一であると、
 
同定することもできます。
 
 

そのことを、精神は1つであるとか、
 
事実は1つであると、表現しますから、 
 
たいへんに、ロマンティックです。
 
 
ヘーゲルの絶対精神や、マルクスの科学主義だけでなく、
 
刑事訴訟法や精神福祉法が標榜する日本国憲法などは、
 
偏執と言えるほどの、純粋なロマン主義を掲げています。
 
 

私たちが、精神や事実により、
 
他人を病気としたり、犯罪者としたりするのは、
 
そのせいであると、記号論理学は言います。 
 
 
コンピュータを作った記号論理学では、
 
論理法則は、ただの慣習法にすぎませんから、
 
話は、簡単です。
 
 
論理法則が、身体や脳の、遺伝の内容として、
 
変更不能であるのは、
 
ブルドックやダックスフンドを、短期間に作ったように、
 
流行文化により、他人を間引いて来ただけでなく、
 
ばい菌以来の、40億年このかた、
 
嫌(いや)な奴を取捨選択して、
 
純化された形質が、遺伝しているからに、
 
相違ありません。
 
 

最近の流行文化では、変更不能な論理法則が、
 
エリートや進化などと、言われますが、
 
40億年に渡る枝分かれの組み合わせの中から、
 
実際に通り過ぎた判断の、0と1の羅列にすぎません。
 
 
100億回も、ジャンケンに勝ち続けた人は、
 
奇跡のように思われますが、
 
勝った者同士がジャンケンをする大会形式では、
 
1度も負けずに、最後まで勝ち残る人が、
 
必ず1人いますから、
 
参加者の数に応じて、勝ち続ける人がいるのは、
 
奇跡でもなければ、何でもなく、
 
勝ち続けた人が、ジャンケンに強いとさえ、言えません。
 
 
40億年の進化の、枝分かれと組み合わせは、
 
多数の分子の連なりがあったから、
 
何度も、判断の分岐点を、超えて来ただけであり、
 
現存する生物が、優れているわけでもなければ、
 
ジャンケンに強いわけでも、ありません。
 
 

現代世界の流行文化では、医師のような生物が、
 
生まれつきの偏執狂なのかも知れません。
 
 
40億年の権力の系譜が、論理法則を作りました。
 
 
科学が、権力の道具であると、瞬時にわからない人は、
 
おそらく、一生かかっても、わかりません。
 
 
そのことを、頭が悪いと言うよりは、
 
種(しゅ)が違うと、言ったほうが、便利です。
 
 
昔のアメリカ人は、黒人を殺しても、へっちゃらでした。
 
種が違いますから、生殖できません。
 
そのように教えましたから、道徳と言われました。
 
 

精神医療は、現代日本で、それを行なっていますが、
 
理由があろうとなかろうと、
 
人を殺すのは、犯罪や精神病であるとして、
 
処刑したり、薬物により、人格を破壊したりするのは、
 
権力のせいです。
 
 

人殺しや精神病の、事実や精神を特定する手順は、
 
コンピュータと違います。
 
 
錦鯉の柄(がら)を選ぶように、
 
権力が、嫌(いや)な奴を殺します。
 
 
裁判所や精神科は、
 
事実や精神を、作っている現場ですが、
 
変更不能な遺伝の内容を、取捨選択しています。
 
 
とりわけ、精神病院は、
 
病気の証拠がないにもかかわらず、
 
精神を判断して、
 
強制的に抗精神病薬を投与することにより、
 
診断基準に記された精神症状を製造すると同時に、
 
診断前の証拠がないという証拠を、隠滅します。
 
 

西ヨーロッパでは、すでに廃止された精神病院が、
 
ロシアやアメリカ合衆国や日本では、今が花盛りです。
 
 
精神病院が、西欧で廃止された理由を、
 
日本人は理解できません。
 
 
賛成できないのでなく、話の筋を読み取れません。
 
 
明治維新までの日本には、
 
形而上学がありませんでしたが、
 
仏教は、精神の無いことを、
 
しちくどく主張していましたので、怪訝です。
 
 

事実に至っては、
 
純粋なロマン主義憲法を奉じる日本人には、
 
まったく理解不能です。
 
 
事実はないと、釈迦が主張した意味を、
 
ほとんどの日本人は、理解できません。
 
 
ビデオがあるではないかと、裁判官は言います。
 
 
カネが目当ての、人を嬲(なぶ)り殺す輩(やから)を、
 
事実と法律により、処罰しなければ、
 
世の中は成り立たないと、日本人は、信じています。
 
 

開拓時代のアメリカでは、
 
ミシシッピの平原や、ロッキーの山中で、人を殺しても、
 
そう簡単には、他人にバレませんでした。
 
 
証拠がなくても、縛り首にしなければ、
 
社会の秩序を、維持できないのでは、
 
現代日本の精神医療と、同じです。
 
 

江戸時代の日本は、すでに現代と同じように、
 
事実を類推する文化が、普及していました。
 
 
どのようにして、事実を知り、
 
事実は1つであると、確信するに至ったかは、
 
証拠がなくても縛り首にする手順を、
 
権力が、論理法則を運用して、行なったにすぎません。 
 
 
鉄砲や黒船や原爆と、同じです。
 
 
論理法則を使うコンピュータが、
 
事実や精神を類推しないのは、
 
そのようにプログラムされていないからです。
 
 

日本人が、いくら否定しても、
 
南京大虐殺は、歴史の事実であり、
 
日本人は、韓国朝鮮の女性を、慰安婦にして、
 
無慈悲に弄んだ後に、使い捨てて殺しました。
 
 
刑事訴訟や精神医療と、まったく同じ判断の手順です。
 
 

そんな事実はないのに、歴史の事実と言われて、
 
A級やBC級戦犯が、処刑されたように、
 
日本人は、もっと処刑されなければいけないと、
 
中国人や朝鮮人は、主張します。
 
 
裁判官が、殺人犯人を処刑したり、
 
精神科医が診断して、
 
精神病患者に、強制的に抗精神病薬を投与するのと、
 
どこが違うのでしょうか。
 
 
マルクス主義と言われるロマン主義の一派の旧ソ連では、
 
嫌(いや)な奴が、シベリアや精神病院に送られるのが、
 
あたり前でしたので、粛清と言われています。
 
 
日本の刑事訴訟や精神医療だけが、
 
粛清でないという理由は、ありません。
 
 
旧ソ連と並び、現代日本の憲法が、
 
極端なロマン主義であることは、
 
火を見るよりも、明らかです。
 
 

精神や事実は、最初から存在するのでなく、
 
人為的に存在すると、想定したほうが、
 
便利であると、民主的に決める手順が、
 
日本国憲法に明記されていません。
 
 
精神や事実の、製造方法を、取り決めていない憲法は、
 
底抜けであると言うよりも、
 
戦争に勝ったマッカーサーの、
 
信念や趣味だったのかも知れません。
 
 
南京大虐殺朝鮮人慰安婦についての、冤罪に、
 
日本人が抵抗できないのは、
 
日本国憲法の間抜けが、原因です。
 
 
これまで、何も考えなかった日本人自身の、問題です。
 
 

精神や事実は、バーチャルであり、
 
他人に伝えられるのは、
 
言葉やビデオなどの、メディアの表現だけです。
 
 
精神や事実は、1つであるなどと、
 
馬鹿げた妄想を、信じてはいけません。
 
 
ロマン主義は、第二次世界大戦が終わった時に、
 
廃れたのに、
 
日本国憲法が、最も純然たるロマン主義を掲げたのは、
 
マッカーサ1人の悪趣味だったのでしょうか。
 
 
軍人や政治家や医者や法律家は、
 
宗教家や一般市民と同じように、頭が悪いので、
 
仕方ありません。
 
 

遺伝子を操作すれば、
 
猿と人間のニューハーフを、簡単に作れるのに、
 
それを禁じる道徳が、
 
いつまでも変わらないと、思えないように、
 
コンピュータが権力を握る日は、遠くありません。
 
 
国民が、コンピュータにより、
 
処刑されたり、措置入院にされたりするのは、
 
ロマンティックな日本国憲法に、相応しい社会です。
 
 
ホロコーストや2度の世界大戦や共産主義革命などの、
 
惨劇を招いたロマン主義を、強く批判しなければ、
 
コンピュータによる裁判や診断や生殖などの、
 
変更不能な社会の袋小路に、必ず行き当たります。
 
 

精神や事実は、
 
個人が権力に囚われている証拠であると、
 
理解できるなら、
 
刑事訴訟や精神医療だけでなく、
 
日本国憲法を廃止しなければいけません。 
 
 
ロマン主義と訣別すれば、
 
精神や事実を標榜する人生の、滑稽さが、見えて来ます。
 
 
コンピュータを作った記号論理学は、
 
それを主張していたと、私は思います。
 
 

知覚の主体の精神が、知覚の対象の事実を、
 
目や耳を使い、知覚すると、教えられませんでしたか。
 
 
すでに廃れたはずの、極端なロマン主義が、
 
日本で生きています。