伏見稲荷 0026 人間は、社会の存続を、望んでいない

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京都伏見稲荷の千本鳥居。
 
狐と鳥居が一杯なので、
 
朝食に、いなり寿司ときつねうどんを食べたような
 
 
この山を登るのは、
 
毎日、足腰を鍛えるには、手頃でしょう。
 
 
しかし、足腰の筋肉の、運動不足のせいで、
 
歩けなくなるのでなく、
 
たいていは、内臓の病気や、骨の劣化などのせいで、
 
寝たきりになります。
 
 

90才を超えると、風邪などのウイルスにより、
 
中枢神経の反射機能が、損傷されて、
 
ある日、突然に、布団から起き上がれなくなり、
 
回復しません。
 
 
これと言った病気がないので、
 
足腰が弱ったと、思うかも知れませんが。
 
 
 

若い時は、子供の世話ばかり。
 
50才まで、続きます。
 
年を取ると、親の世話ばかり。
 
40才から60才頃まで、続きます。
 
 

ところが、人間は60才になると、
 
すでに知的障害ですので、
 
子供を生むべきかは、問題です。
 
 
先進国は出生率が下がり、
 
生涯に、1人しか、子供を生みません。
 
先進国国民の、自主的な選択です。
 
 

夫婦1組につき、子供2人でなければ、
 
社会は、なくなりますので、
 
人間は、人類滅亡を選択しています。
 
 

この意思を、尊重するのが民主主義と言うべきか、
 
それとも、宗教と言うべきかを、私は知りませんが、
 
人々が自由に選択した意思を、社会は軽んずべきでない。
 
 
民意は、楽をして暮らしたいが、
 
苦しい目をして、社会を存続させたくない。
 
 
個人が楽をして、社会が消滅することを、望んでいます。
 
 
けっして、
 
個人が苦しい目を見てまで、社会の存続を、
 
望んでいません。
 
それが民意です。
 
 

昔の人は、他人の老後を、知りませんでした。
 
今は、芸能人の老後を、知っています。
 
 
あれほどまでに、才気煥発と言われた人も、
 
年を取れば、人間の尊厳や、知性の素晴らしさなどは、
 
跡形もない。
 
 
みな、救いようのない身体障害の知的障害でして、
 
腐った肉が冷凍されるように、処分されて行きます。
 
 
例外は、ありません。
 
 

私が、日本の精神医療や性転換医療を、批判するのは、
 
人間の生涯を見て、
 
当人の望みを、社会が尊重しなければ、
 
社会は、コンピュータと同じでないかと、言っています。
 
 
国民が生殖を抑えて、社会が廃れても構わないからと、
 
個人の快楽を、大切にしているのに、
 
政府が、生殖や社会の存続を、優先するのは、
 
裏切りであり、民主的でありません。
 
 

社会が豊かになれば、個人が楽をして、
 
社会はなくなるべきであると、
 
人類の大多数は、考えています。
 
 
社会が豊かになれば、
 
どこの国も、子供を生まなくなり、人口が減りますから、
 
人々が、そう考えているのは、間違いありません。
 
 

自分が楽であれば、たとえ子供のためであっても、
 
社会の未来は、ないほうが良い。
 
 
まるで、抗不安薬を使用しているような考え方ですが、
 
薬物を使用しなくても、
 
楽しいことや幸せなことや、
 
満足することや快適なことなどは、
 
すべて、抗不安薬と同じように作用しますから、
 
人が幸せを求めるのは、
 
精神的に気持ち良くなり、あほになり、
 
お目出度く死んで行くために、決まっています。
 
 
パスカルの言ったような、考える葦は、人間の姿でない。
 
 

このブログが、精神医療や性転換医療などを、
 
問題にするのは、そのような意味からです。
 
 
医療や法律の、ロマン主義の廃止が、
 
人類を救うと、私は考えています。
 
 
 
 
 
 

【Mein lieber schatz】 0025 伯爵令嬢マリッツァ


Grafin Mariza "Mein lieber schatz - Sag ja, mein lieb"

カールマン Emmerich Kalmanの、オペレッタ
 
【伯爵令嬢マリッツァ・Grafin Mariza】から
 
マリッツァとタシロの二重唱、
 
 
Mein lieber schatz - Sag ja, mein lieb 
 
私の愛しい人よ、はいと言ってください
 
 
テノール : 
 
ニコライ・ゲッダ(Nicolai Gedda )のタシロ
 
 
ソプラノ : アンネリーゼ・ローテンベルガー
 
(Anneliese Rothenberger)のマリッツァ
 
 
    ***    ***
 
 
著作権切れですから、歌詞を載せても良いはずです。
 
 
Emmerich Ka`lma`n - Sag ja, mein Lieb', sag ja
 
(Gra"fin Mariza)
 
 
Tassilo
 
Mein lieber Schatz, zieh’ an dein scho"nstes Kleid,
 
so gegen zehn, mein Liebchen sei bereit.
 
Ich wart’ auf dich im Dunklen vor dem Tor,
 
heut hab’ ich mit dir was Besonderes vor.
 
 
Mariza
 
Die Stund’ ist da, sie kommt mit leisem Schritt
 
und bringt ein ganzes Herz voll Liebe mit.
 
 
Tassilo
 
Nun fragt nicht, mein Liebchen, wohin ich dich fu"hr:
 
Mach deine Augen nur fest zu und komm mit mir!
 
 
Refrain
 
Sag ja, mein Lieb, sag ja,
 
so lang das Glu"ck dir noch nah.
 
Oh fu"hl, wir za"rtlich mein Arm dich ha"lt,
 
ich trag dich weit in die Welt.
 
Ich trag mit starker Hand
 
dich fort ins Ma"rchenland.
 
Sag ja, die Stunde des Glu"cks ist da,
 
o mein Lieb, sag ja, sag ja!
 
 
Mariza
 
In deinem Arm ein kleines bisschen Glu"ck,
 
aus deinem Aug ein seelig heisser Blick.
 
Nun bin ich da, wohin mein Herz mich rief,
 
Von fern to"nt ein za"rtliches Walzermotiv.
 
 
Tassilo
 
Von deiner Hand ein Druck, der sich verra"t,
 
aus deinem Mund ein Wort, das hold gesteht.
 
Die Antwort, die jauchzend dein Herzchen mir gibt,
 
wenn ich dich frag, mein su"sser Schatz,
 
hast du mich lieb?
 
 
Refrain
 
Sag ja, mein Lieb, sag ja,
 
so lang das Glu"ck dir noch nah.
 
Oh fu"hl, wir za"rtlich mein Arm dich ha"lt,
 
ich trag dich weit in die Welt.
 
Ich trag mit starker Hand
 
dich fort ins Ma"rchenland.
 
Sag ja, die Stunde des Glu"cks ist da,
 
o mein Lieb, sag ja, sag ja!
 
 
 
 
 

私は、小学高学年から中学生の頃に、
 
学校の合唱団に、放り込まれていました。 
 
 
歌は、女の道具と、思っていましたから、
 
嫌いで嫌いで、仕方ありませんでしたが、
 
学校の命令です。
  
 
都道府県の大会で、
 
ボーイソプラノソリストとして、
 
優勝したことがあり、
 
地方大会に出場しなければいけませんでしたが、
 
大嫌いなので、逃げ出して、怒られました。
 
 

フィラデルフィアに居た時に、
 
オペラを観るのが趣味になり、
 
ニューヨークの、
 
ビクターフックスというボイストレーナーの、
 
個人レッスンを受けました。
 
 
元オペラ歌手の、有名人でしたので、
 
生徒も、プロ歌手や、プロ志望の人ばかりでした。
 
 
私は、頭蓋骨が日本人なので、
 
白人の声なんか、出るわけがありません。
 
 
目の玉が飛び出るほど、授業料が高かったので、
 
すぐに、頭蓋骨の形と声の関係に気づいて、
 
やめましたが、
 
その時に知り合った歌関係の人たちと、
 
今も友達です。
 
 

ジャズが好きですが、
 
クラシックの合唱やベルカントから入りましたので、
 
声楽の素養のある人の、
 
ジャズやミュージカルの歌唱に、注目するだけでなく、
 
声楽と無縁の発声法や歌い方が、大好きです。
 
 

声を潰してしまっては、
 
音域が狭くなり、声量がなくなり、
 
音程やリズムを、取れなくなりますので、
 
声が潰れないように、
 
小さな声で、マイクを上手く使い、
 
潰れた声を演出できる歌い方が、良いかも知れません。
 
 
音程やリズムに、間違いがなければ、
 
声は、悪ければ悪いほど、魅力的ですから、
 
喉を大切にして下さい。
 
 

昔は、伯爵夫人と翻訳していましたが、
 
正しい意味は、伯爵令嬢だそうです。
 
 
 
 
 
 
 

近鉄南大阪線ターミナル駅の阿倍野ハルカス 0024 事実と精神のしくみ

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日本で1番高いビルですが、
 
1度しか、入ったことがありません。
 
 
女子高生が入らなければ、だれも入らないでしょう。
 
年末なのに、閑散としていました。
 
 
近鉄百貨店は、垂れ幕を、ぶら下げないのでしょうか。

 
無骨な男っぽいデザインですから、
 
お金を使ってくれる女性が目当ての、
 
おしゃれな集客施設とは、違います。
 
 
近鉄南大阪線のターミナル駅の、あべの橋ですから、
 
東京の私鉄の、狭くてボロいターミナル駅のほうが、
 
よほど、大阪のイメージに近い。
 
 
階下の駅は、人だらけで、ごった返していました。
 
 

歩道橋に屋根があるのは、便利ですが、
 
天王寺阿倍野を、うろつきたい気持ちに
 
なりませんでした。
 
 
大阪は、だんだと寂れて行くのが、目に見えています。
 
 
天王寺公園のホームレスを始末したのが、
 
世も末だったのかも。
 
 
汚く混沌として、どんなに裕福なお金持ちでも、
 
ホームレスと対等に話せる心意気がなければ、
 
大阪でない!
 
 
東京都港区の真似(まね)をしたのでは、
 
生きる目がないと、私は思いました。
 
 

このブログは、日記ですが、
 
だれも読まないのに、公開していますので、
 
言いたいことを、書きます。
 
 
言ってはいけないことを、
 
公開しないカルテに、記録していますから。
 
 

人生のほとんどは、公開すれば、損をするので、
 
秘密が大切です。
 
 
仕事のほぼ全部は、守秘義務がありますが、
 
義務がなくても、公開すれば損をします。
 
 
プライベートな生活のほとんどは、
 
インターネットに公開すれば、危害を受けますので、
 
日時や場所や人物や、具体的な用件や状況などを、
 
特定しません。
 
 
パスワードを公開しないように、
 
プライベートと仕事にかかわらず、
 
非公開が、人生の基本です。
 
 

ならば、公開される人生の事実を問う刑事訴訟は、
 
嘘でないかと、疑われます。
 
 
その反対に、非公開の精神医療は、
 
精神の証拠がなく、嘘でないかと疑われます。
 
 
嘘や本当は、何により、決まるのでしょうか。
 
 

このブログの主題です。
 
 
事実と精神を、基準にする人が、
 
一般市民だけでなく、法律家や医師に多いのは、
 
「知覚の対象の事実を、知覚の主体の精神が、
 
目や耳を使い、知覚する」、とするロマン主義の思想が、
 
大日本帝国憲法日本国憲法を作り、
 
政治家や、行政府の公務員だけでなく、
 
広く一般に、法律家や精神科医が、ロマン主義の権力を、
 
行使しているからです。
 
 

しかし、流行のコンピュータの、
 
ソフトウェアの原理を作った記号論理学や、
 
半導体集積回路を作った電気工学は、
 
ロマン主義の常識を、否定しました。 
 
 
人間の感覚器官は、
 
科学技術を作るために必要な事実を、
 
知覚できませんので、
 
人間が知覚できるように、事実を翻訳するための
 
計測器が必要です。
 
 

このことは、人間が知覚できる事実を、
 
直接に、他人に伝えることができないので、
 
コミュニケーションのためのメディアとしての、
 
言葉やビデオなどの表現に、
 
翻訳しなければいけないのと、同じです。
 
 

翻訳されない知覚の内容は、個人的な事実であり、
 
翻訳されて、他人に伝わったメディアの表現だけが、
 
みんなの事実として、社会に存在しますので、
 
コンピュータは、みんなの事実を扱い、
 
他人に存在の確認されない個人的な事実を、扱いません。
 
 
コンピュータでは、
 
言葉やビデオなどの、メティアの表現だけが、
 
唯一の事実ですので、
 
事実と言われる形而上学の概念を、使用する意味も、
 
なくなりました。
 
 
コンピュータは、単に、情報を扱います。
 
 

ロマン主義だけでなく、それ以前の形而上学が、
 
情報と言わずに、事実と言った理由は、簡単です。
 
 
言葉や絵には、嘘や間違いが多く、信じられない。
 
 
コミュニケーションのための言葉や絵の、
 
嘘や間違いの情報と、区別するために、
 
事実と言われる概念を作りましたが、
 
嘘や間違いの事実もあるだけでなく、
 
事実は、直接に他人に伝えられず、
 
言葉や絵などの、
 
コミュニケーションのためのメディアの表現に、
 
頼らなければいけません。
 
 
あいつが、言葉や絵を使い、
 
他人に伝えている情報は、嘘であり、
 
俺の見た事実が、本当であると、
 
形而上学は言いたかった。
 
 

だから、電信や写真やラジオなどが発明されて、
 
形而上学は廃れましたが、
 
共産主義革命や2度の世界大戦やホロコーストなどが、
 
起こりました。
 
 
ロマン主義の1派の
 
マルクス主義や、ナチス社会主義などは、
 
科学主義を掲げましたが、
 
それらの惨劇を起こしたロマン主義者たちは、
 
共通して、
 
「知覚の対象の事実を、知覚の主体の精神が、
 
目や耳を使い、知覚する」、と信じていました。
 
 

人間は、事実の大部分を、知覚できないので、
 
計測器を使わなければ、科学は発達しませんが、
 
何と何を計測すれば、
 
事実の全部がわかるのかを、誰も知りません。
 
 
それどころか、事実の一部を知覚する人間の感覚が、
 
事実の概要を伝えているのか、
 
それとも、事実の全体像は、
 
人間の知覚した部分的な情報と、
 
まったく異なるのかを、誰も知りません。
 
 

計測器の捕捉した情報を、
 
人間の感覚できる情報に、翻訳しなければ、
 
人間は、未知の情報を、受取れませんので、
 
その翻訳の正しさを、論理法則が保証したとしても、
 
自然科学は、
 
論理法則を、神のように信奉すべきでありません。
 
 

論理法則は、
 
遺伝的に変更不能になった慣習法ですから、
 
嘘と本当を見極めるために、
 
価値の変更不能を競うのは、笑止千万です。
 
 

自然科学は、未知の事実を知るための、
 
形而上学の一種として、
 
近世以後のロマン主義に、受け継がれましたが、
 
科学が発達しなければ、事実は知られないだけでなく、
 
発達しても、事実の全貌は、永遠に知られませんから、
 
論理法則と言われる慣習が頼りの、
 
ネズミの回し車やネズミ講などに、似ています。
 
 

論理法則が頼りの記号論理学は、
 
コンピュータの原理を作るにあたり、
 
はっきりと宣言しました。
 
 
言葉やビデオなどの、
 
コミュニケーションのためのメディアの表現だけが、
 
他人に伝えられる存在の全部であり、
 
けっして、表現の背後に、
 
表現された本体の、事実や精神と言われる存在は、ない。
 
 
コンピュータは、事実や精神を、扱わない。
 
論理法則だけが、表現の正しさを、保証します。
 
 
コンピュータは、何と何と何が、論理法則であるかを、
 
明らかにしません。
 
 
みんなの役に立つ定義が、みんなに普及しますので、
 
論理法則と言われて、人間の遺伝を規定します。
 
 
役に立たない人間は、間引かれますので、
 
人間が、ブルドックやダックスフンドを作ったように、
 
コンピュータの普及が、人間の遺伝を作ります。
 
 
役に立たない人間は、精神病と言われて、
 
間引かれるでしょう。
 
 

コンピュータが、
 
0と1の、判断の枝分かれや組合せを、特定する方法は、
 
人間の脳の、樹状突起の枝分かれを、模倣しました。
 
 
0と1の樹状突起の枝分かれが、
 
言葉やビデオに翻訳される仕組は、
 
専門学校出身のプログラマーなら、誰でも知っています。
 
 
未知の事実は、
 
脳の中の、どこにも記憶されていませんが、
 
樹状突起の枝分かれがあれば、
 
言葉やビデオに翻訳されるのは、あたり前です。
 
 

未知の事実が、脳の外側の世界にあると、
 
確信するのは、
 
脳の樹状突起の0と1の枝分かれを、
 
言葉やビデオに翻訳する手順が、
 
脳の外側の、文化に依存すると、確信しています。
 
 
脳の外側の文化を、個人の脳が特定すれば、
 
脳の外側の事実を知覚したと、個人は確信します。
 
 
同じ文化に依存していれば、隣に立つ人と、私とが、
 
同じ脳の外側の事実を知覚するのは、当然です。
 
 
同じように、それぞれの脳の中の、
 
0と1の枝分かれや組合せを、特定しただけです。
 
 
0と1の判断の枝分かれや組合せは、
 
汎用性がありますので、
 
私の脳の中で特定しようが、
 
隣の人の樹状突起を使って特定しようが、
 
同じ組合せが特定されて、同じ事実が見えるのは、
 
あたり前です。
 
 
私のパソコンを使おうが、隣の家のパソコンを使おうが、
 
同じプログラムなら、同じ結果になります。
 
 
同じ文化なら、2つの脳が、同じ事実を知覚するのは、
 
あたり前です。
 
 

自分の居場所を、違う場所に指定すれば、
 
違う事実が見えます。
 
違う0と1の組合せを、たぶん同じプログラムが、
 
特定しただけです。
 
 
パソコンの使い方に習熟していない人は、
 
嘘の付き方を知りませんが、
 
使い慣れている人は、
 
ニューヨークに居るのに、東京に居ると、嘘を付きます。
 
 
脳を使い慣れている人は、簡単に嘘をつけますから、
 
人を殺したと言うことも、殺していないと言うことも、
 
可能です。
 
 
ロマン主義者は、どちらが本当かと、詮索しますが、
 
記号論理学者は、メディアの表現だけが、存在すると、
 
言います。
 
 

私たちが、今、手を使い、お茶を飲み、熱いと感じ、
 
隣の女の目が、私を見てるのを、私が見ているとか、
 
今、車を運転して、
 
野良犬を轢き殺しそうになったので、車を降りて、
 
犬の毛が、車体に付着していないかを、確かめたとかを、
 
嘘偽りのない事実と感じるのは、
 
脳の樹状突起を使い、
 
0と1の枝分かれや組合せを特定して、
 
文化的な翻訳のプログラムにより、
 
お茶や車や犬に、翻訳したのを、
 
目や手により知覚したと、信じているだけですが、
 
確かに、目や手があると、あくまで事実を主張しても、
 
そのように知覚する文化が、プログラムでなく、
 
事実と言われる未知の存在であるとは、証明されません。
 
 
もちろん、文化的なプログラムであると、証明するのも、
 
論理法則にすぎませんから、
 
論理法則こそが、文化の中の、
 
遺伝的に変更不能になったブルドックの、
 
顔のような存在です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

大阪・四天王寺のセンダン 0023 東京の浅草寺に似た伽藍

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遠くから見て、白い実はナンキンハゼと思いましたが、
 
お寺の池の傍に、街路樹の大木も、変ですから、
 
センダンでないかと、訂正しました。
 
 
孫が、私よりも早く、木に近づき、
 
「栴檀と書いてある」と、大声で叫びますので、
 
私は、お手つきになりました。
 
 
センダンと、訂正したのに・・・
 
 

栴檀は、大阪あたりの暖かさでは、
 
山を手入れしないで、放置していると、
 
真っ先に生えて来る樹木の1つです。
 
 
こんなものを、庭木として植える人は、いませんので、
 
四天王寺に、この太さの栴檀が育っているのは、
 
この木が生えて来た頃に、寺が放置されていた、
 
という証拠です。
 
 
栴檀は、よく育ち、幹の太い大木になりますので、
 
樹齢は、150年ぐらい?
 
 
廃仏毀釈の名残でしょう。
 
 

大阪の四天王寺と、東京の浅草寺は、歴史こそ違え、
 
同じような伽藍の境内です。
 
 
四天王寺は6世紀末の、救世観音を本尊として、
 
和宗という名前の宗派を作り、独立しているそうですが、
 
浅草寺も、
 
7世紀初めに建立されたとする言い伝えがあり、
 
聖観音を本尊とする聖観音宗を作り、
 
独立しているそうです。
 
 
いずれも、一時は天台宗に属していたそうですから、
 
似ています。
 
 

おおいに違うのは、
 
普段は、誰も居ない境内の、閑散とした四天王寺と、
 
いつ行っても、旅行者で混雑している浅草寺の、
 
人気でしょうか。
 
 
四天王寺も、弘法大師聖徳太子の命日の、
 
毎月21日と22日の、大師会と太子会は、
 
古着屋や古道具屋などで、人だらけになります。
 
大阪で、知らない人は、いないでしょう。
 
 
でも、いつもは、だれも居ません。
 
子供も、冬になると、戸外で遊びません。
 
四天王寺浅草寺は、似て非なるお寺です。
 
 

栴檀は、冬の淡いベージュの実よりも、
 
梅雨入り前の、初夏の紫の花が美しく、
 
この花を見るために、植えるだけの価値はあるのですが、
 
成長が早く、大木になりますから、
 
庭に植えると往生します。
 
 
東京では、少し気温が足りません。
 
 
  
 
 
  
 

大阪で虹を見た 0022 事実を知覚するのは、個人のような社会のような

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相変わらず、大阪と東京を、行ったり来たりして、
 
たまに、個人的な事情から、
 
上海とニューヨークが、さし挟(はさ)まれます。
 
 
少なくとも、こんなに忙しいのは、
 
金満家の生活でありませんが、
 
私は、元気なうちに、忙しくしていることに、
 
満足しています。
 
 
病気になれば、死ぬ年齢ですから、
 
このまま、忙しく死んでいきたい。
 
 
だんだんと暇になり、眠るように死にたくない。
 
 

もう、石油の仕事は、ありませんから、
 
性転換者たちと、親しくしていることが、
 
信じられません。
 
 
このごろは、性転換に関わったことが、
 
夢のように感じられます。
 
 
自分自身に抗議したくなりますが、
 
身体が老化して、疲れやすくなると、
 
現実が、夢のように感じられます。
 
 

大阪で、くっきりとした虹を見ました。
 
 
大きな虹でした。
 
 
きちっと、天空を横切る半円形に見えて、
 
副虹も、しっかりと映(は)えていましたから、
 
数年に1度の、幸運でした。
 
 
頭上は、厚い曇り空ですが、
 
南西の地平線近くは、晴れていました。
 
 
そこから、光が差し込み、
 
雲の下の小雨に、反射したのでしょう。
 
 
球状の水滴に、入る時と出る時に、2度屈折するので、
 
プリズムのように分光して、虹になります。
 
 
水滴の中で、内側から球面に反射しますが、
 
副虹は、球面に2度反射するので、主虹よりも暗く、
 
色の並び方が、主虹と反対になります。
 
 
私は、あほなので、元気なうちに死にたいと、
 
虹に言いました。
 
 

「知覚の主体の精神が、知覚の対象の事実を、
 
目や耳により知覚する」、とする常識が、
 
論理法則に矛盾することは、論理的に証明されます。
 
 
論理法則の成り立ちと、
 
社会の文化や個人の精神を、変更不能にして行く仕組を、
 
社会や個人が、理解できないのは、
 
論理法則を運用する能力が、生まれつきに低いからです。
 
 
論理法則は、抗精神病薬や科学技術や法律のように、
 
脳の機能を麻痺させる毒として、作用しますから、
 
樽(たる)のディオゲネスや、フーテンの寅さんは、
 
賢(かしこ)かったのかも知れません。
 
 

科学技術は、論理的に運用されて、
 
科学により、論理的に説明されますが、
 
論理技術や論理では、実証されません。
 
 
マルクス主義のような、
 
ロマン主義の1派の共産主義は、
 
科学主義を掲げましたが、潰れました。
 
 
旧ソ連は、
 
コンピュータ技術の立ち遅れと、官僚主義の蔓延が、
 
経済と行政を衰退させて、滅びました。
 
 
科学立国を掲げる日本も、虫の息ですが、
 
西ヨーロッパやアメリカ合衆国憲法は、
 
キリスト教を標榜していますので、
 
公明党憲法改正に、期待すべきでしょうか。
 
 

鉄砲や黒船や原爆などの、欧米の優位を、
 
日本人は、世界で一番よく知っています。
 
 
火縄銃は、組織的に使用しなければ、
 
役に立たなかったので、
 
豊臣秀吉は、組織的な軍事技術の高い日本は、
 
世界を征服できると、期待しました。
 
 
航空機の時代になっても、
 
日本海海戦に勝てる戦艦を作り、
 
原爆を落とされるかもと、心配しなかった日本人は、
 
人殺しに執着しない生き方を、望みました。
 
 
論理法則や科学技術の成り立ちを、理解できません。
 
 

ブルドックやダックスフンドを作ったように、
 
次々に個人を間引いて行かなければ、
 
論理法則や知覚の仕組は、形成されません。
 
 
特定の遺伝的な形質を、純化しただけです。
 
 

個人の脳の外側に、
 
知覚の対象の、事実と言われる物や物語が、
 
知覚されるのに、
 
知覚の主体の、個人の精神が、在るのか無いのか、
 
わからないように、
 
社会や文化も、 
 
知覚されるのか知覚されないのか、わかりません。
 
 
知覚の対象の事実を、知覚する主体の精神は、
 
脳の内側の、個人の精神でなく、
 
脳の外側の、社会の文化でないかと、疑われます。
 
 
脳の外側の社会の文化が、脳の機能を規制するので、
 
個人の脳は、
 
脳の内側に、精神があるかのように、妄想して、
 
脳の外側の、事実の存在を、幻覚と疑わずに、
 
確信するのかも知れません。
 
 
文化が、多くの人に、同じように作用すれば、
 
脳の内側の、同じような判断の枝分かれや組合せを、
 
多くの人が特定するにもかかわらず、
 
私たちは、脳の外側の、特定の事実を共有していると、
 
錯覚します。
 
 

脳の外側の事実を、バーチャルに想定すると、
 
言っても、
 
脳の外側に、事実があるのと、意味は同じですから、
 
事実は、在っても無くても、言葉の綾にすぎません。
 
 
文学表現が、変更不能になるので、厄介です。
 
ただの文学なのに、刑事訴訟や精神医療に及ぶのは、
 
法律家や医師の、論理能力が低いからです。
 
 
神経細胞樹状突起が、判断の汎用性を失います。
 
 
 
 
 
 
 

センリョウの実 0021 進化の系統

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キノミノセンリョウという名前の、
 
センリョウの変種です。
 
 
品種でありませんから、人為的に作ったのでなく、
 
自然に自生しています。
 
 
交配により、雑種の生まれる可能性が、どれくらいかを、
 
私は知りません。
 
 
生殖の可能性は、生物の種(しゅ)の分類に、
 
決定的に重要ですから、
 
人為的な交配を、自然でないとして、
 
種(しゅ)未満の、品種のレベルにしか、
 
評価しないのは、文学にすぎません。
 
 
人為的には、人間と植物の交配も、可能ですから、
 
品種どころか、生物の概念を一変します。
 
 
人為的な交配を、種未満としか、評価しない道徳は、
 
特定の文学が、変更不能になっている人間の精神を、
 
根拠にしています。
 
 
廃れゆく生物学は、死にゆく人間を、根拠にしています。
 
 
生物の新しい分類学は、
 
生物の作り方と出来上がりの分類になるでしょう。
 
 

センリョウ目やセンリョウ科は、
 
コショウ科やモクレン類などと同様に、
 
双子葉類と単子葉類に、分かれるよりも前の、
 
古い被子植物の一群です。
 
 
ヒトリシズカやフタリシズカも、センリョウ科ですが、
 
花びらがなく、3本の雄しべが、一箇所から出ています。
 
 
雄しべの先でなく、根元に葯を付けますから、
 
よく見慣れている花の形と、違います。
 
 

白亜紀被子植物の化石も、センリョウ科や
 
コショウ科やモクレン類などばかりですので、
 
昔の被子植物の形態を残していると、考えられています。
 
 

私は、進化の系統を類推する手順や、
 
生殖の可能性などを知るのが、好きなので、
 
植物を採集して分類するのが、
 
子供の頃の趣味になりました。
 
 
今は、採集をせずに、写真に撮るだけですが、
 
昔の夢が蘇るような気持ちになりますので、
 
無意識にカメラを向けてしまいます。
 
 
婦人科医や泌尿器科医が、
 
無意識に人間の生殖器を撮影するのに比べて、上品です。
 
 
一番下品なのは、精神科医ですが、
 
事実や精神や論理法則などによる知覚が、
 
変更不能になった進化の系統は、
 
いつ頃まで、遡ることが出来るのでしょうか。
 
 
 
 
 

 

【 I Wonder as I Wander 】 0020 なにゆえにイエスは  事実の知覚


Barbra Streisand- I Wonder as I Wander

【 I Wonder as I Wander 】
 
なにゆえにイエス
 
歌 : Barbra Streisand バーブラ・ストライサンド
 
 
    ***    ***
 
 
ノースカロライナの作者不明の歌を、
 
John Jacob Niles という人が、
 
1933年に、採集編曲して、作詞したそうです。
 
 
テープレコーダやボイスレコーダのない時代ですから、
 
記譜できる人が、民謡を採取しなければ、
 
現代に残りませんでした。
 
 
メロディやリズムを入手できれば、
 
いくらでも、編曲できますから、
 
作曲と区別がつきません。
 
 
コダーイバルトークなどによる民族音楽
 
収集と保存の運動がなければ、
 
民謡を採取しても、功績を認められませんでしたから、
 
音楽家は、自分の作曲のように偽り、発表したはずです。
 
 
記録する機械がありませんから、
 
世間一般に口ずさまれている民謡であることを、
 
他の地域の人は、知りません。
 
 
音楽は、盗作と、模倣や編曲などの間に、
 
はっきりとした区別がありませんから、なおさらです。
 
 

人間が手を下さなくても、
 
機械的に、調性やリズムを変更するだけで、
 
全然、別の曲ができますが、
 
音楽を採譜できない人は、
 
たぶん、機械的な変曲であることに、気づきません。
 
 
人が聞いても、同じ曲と気づかなければ、
 
盗作でないのは、あたり前です。
 
 

人間の言葉も、そうでしょう?
 
 
自分1人で、言語を発明したわけでなく、
 
人の真似(まね)をして、言葉を習得しました。
 
 
模倣と盗用によらなければ、言葉を習得できませんが、
 
言語は常に変化しますから、
 
他人の真似をする習作は、死ぬまで終わりません。
 
 

みんなと一緒の言葉を使わなければ、
 
他人に通じませんから、
 
盗作と創作は、簡単に区別されません。
 
 
言葉は、通貨のように、
 
誰にでも使えなければ、価値が低く、
 
著作権を設定して、流通を規制するのは、
 
言葉や通貨の、メディアとしての使用目的に、
 
矛盾します。
 
 

音楽や文章は、
 
慣習的な規則に違(たが)わない組合せにより、
 
機械的に、大量に作ることが出来ますので、
 
和歌を詠んだり、音楽を作詞作曲したりするのは、
 
将棋や囲碁に勝つよりも、コンピュータには簡単です。
 
 

論理法則に違わないように、
 
事実と言われる組合せを、見つけ出すのも、
 
機械的な作業であり、脳とコンピュータの仕組は、
 
同じです。
 
 
空間や時間が近いとか、
 
これまでに、みんなに合意された事実の筋書きを、
 
継承しているとか、
 
みんなの望む筋書きを、逸脱しないとかと、
 
条件を指定すれば、
 
コンピュータは、ありそうな現在や未来の事実を、
 
大量に作り出すことができます。
 
 

言葉やビデオなどの、
 
コミュニケーションのためのメディアの表現しか、
 
他人に伝えることができませんので、
 
みんなが合意できる現在や未来の事実を、
 
コンピュータが組み合わせて作り出せば、
 
それが即ち、私たちの知覚する事実になり、
 
それ以外の、みんなに共有されない個人的な事実は、
 
妄想や幻覚や宗教などと言われます。
 
 
今は、個人の脳が行なっていますが、
 
コンピュータが、事実を組み合わせたほうが、
 
間違いが少ない。
 
 

昔は、レコーダがなかったので、
 
人間が採譜しなければいけなかった民謡も、
 
今は、だれでも、
 
機械に録音して、保存できるだけでなく、
 
簡単に、機械的な編曲ができるように、
 
コンピュータを使えば、
 
事実と言われる組合せを、楽ちんに精確に大量に、
 
作り出すことが出来ます。
 
 
写真やビデオは、その走りであったと、
 
気づかなければいけません。
 
 

私たちは、言語を習得して、
 
文法や慣習に違わない言葉を使わなければ、
 
他人に通じないように、
 
事実と言われる慣習に違わない判断の組合せを、
 
今までは、脳の中で作っていましたが、
 
これからは、コンピュータを使い、
 
みんなと一緒に、楽しく作ることができます。
 
 
コンピュータが、物凄い勢いで、組合せを選別して、
 
みんなの許容できる組合せを、
 
いくつも作り出してくれますから、
 
私たちは、みんなで合意して、
 
現在や未来の事実を、民主的に制作することが出来ます。
 
 

さて、事実は1つである必要があるのでしょうか。
 
 
たくさんの条件を付ければ、1つに絞り込めますが、
 
処理能力が低ければ、
 
短時間に1つしか、組合せを見つけ出せませんから、
 
ロマン主義者の脳のように、事実は1つであると、
 
信じる羽目(はめ)になりました。
 
 

みんなで合意しないで、
 
個人の好みの事実を、みんなの前に、
 
発表してはいけないのでしょうか。
 
 
権力が、たくさんの条件を付けなければ、
 
事実が、1つに絞られることも、なかったはずです。
 
 

知覚の主体の精神が、知覚の対象の事実を、
 
目や耳を使い、知覚する、というロマン主義の考え方は、
 
すでに廃れたのでありませんか。
 
 
事実は1つでないはずです。
 
事実を、自分の好みの1つだけであると、言いたいのは、
 
個人の勝手ですが、
 
権力が、事実は1つであると、
 
刑事訴訟や精神医療を使い、主張するのを、
 
一般市民が疑わずに信じているのは、
 
ロマン主義の社会の特徴です。
  
 
日本は、明治憲法日本国憲法という典型的な
 
ロマン主義憲法を頂いていますので、
 
かつて、ロマン主義が、
 
共産主義革命や2度の世界大戦やホロコーストなどを
 
惹き起した時代の、
 
ヨーロッパの危険な意識を、いまだに信じています。
 
 

コンピュータが、キリスト教や仏教と同じように、
 
事実や精神は、虚妄であると、主張していることを、
 
法律家や精神科医は、真摯に受け止める必要があります。
 
 
ロマン主義の時代を、繰り返すべきでないと、
 
ロシアやアメリカ合衆国や日本や中国の人たちに、
 
言うべきかもしれませんが、聞こえないでしょう。 
 
 

私たちの脳は、コンピュータに再現されているように、
 
みんなが受け入れられる組合せを選んで、
 
事実として知覚しています。
 
 
みんなに受け入れられる条件として、
 
他人と、空間や時間が近いとか、
 
論理法則に一致しているとかと、
 
組合せを規定して、限定しますので、
 
私とあなたが、同じ事実を見ることになります。
 
 
脳の処理能力の低さからして、
 
同じ架空の組合せに至るのは、簡単な仕組です。
 
 

脳の樹状突起は、0と1の判断の枝分かれしか、
 
特定できませんから、
 
脳の判断が、物や物語のように
 
ロマンテロィックに翻訳されるのは、
 
個人的でなければ、みんなと一緒の文化のせいです。
 
 
身近な他人と、同じ文化のもとに暮らしていることが、
 
規定されれば、
 
個人的な思惑(おもわく)のような翻訳の違いが、
  
異なる0と1の判断の枝分かれや組合せを、
 
同じ事実の知覚として、特定する原因です。
 
 
写真やビデオは、
 
個人的な思惑を排除して、脳の外側の、
 
同じ文化と言われるを規定を、
 
0と1の判断の枝分かれや組合せとして、特定します。
 
 
写真やビデオは、事実を他人に伝えるための、
 
メディアの表現であるだけでなく、
 
私たちは、メディアの表現と事実が、同じであることを、
 
比較して、同定しなければいけませんから、
 
写真やビデオは、他人に伝えられない事実でもあります。
 
 
メディアの表現は、他人に伝えることができますが、
 
事実は、他人に伝えられませんので、
 
写真やビデオは、思惑と言われる個人的な翻訳により、
 
他人と同じ事実として、知覚されます。
 
 

事実は、脳やコンピュータにより、作り出されますが、
 
どのような規定を、組合せの条件とするかは、
 
慣習や法律などの、みんなの権力の内容によります。
 
 

人間やコンピュータの判断によらずに、
 
事実と言われる世界が、存在して、
 
目や耳が、世界を知覚していると、愚かなことを、
 
法律家や精神科医は、考えるべきでない。
 
 
私は神秘主義者やロマン主義者でありませんから、
 
別に、キリスト教を讃えませんが、否定しません。
 
 

クリスマスキャロルと言いますが、
 
キャロルは、ヨーロッパの特定の舞踏音楽を、
 
指(さ)していたようです。
 
 
そのリズムを、私は知りませんが、
 
たぶん、現代では、舞踏のためよりは、
 
キリストを讃える賛歌や頌歌を、意味しています。
 
 
クリスマスの今日は、
 
大年増のバーバラ・ストライサンドの出番と、
 
思いました。
 
 
サウスカロライナジョージアテネシーは、
 
飛行機を使い、何度も訪れたことがあり、
 
ニューヨークからバージニアまでは、
 
車や列車を使い、旅したことが、何度かありますが、
 
ノースカロライナは、一度もなく、何も知りません。
 
 
おそらく、訪れる機会はないでしょう。